明智光秀という人物
主君織田信長を討った行為については、当時から非難の声が大きく、近代に入るまで"逆賊"としての評価が主だった。特に儒教的支配を尊んだ徳川幕府の下では、本能寺の変の当日、織田信長の周りには非武装の共廻りや女子を含めて100名ほどしかいなかったこと、変後に神君徳川家康が伊賀越えという危難を味わったことなどから、このことが強調された。
『明智光秀公家譜覚書』によると、変後の時期に光秀は参内し、従三位・中将と征夷大将軍の宣下を受けたとされる。
光秀は信長を討った後、朝廷や京周辺の町衆・寺社などの勢力に金銀を贈与した。また、洛中及び丹波の地に、地子銭(宅地税)の永代免除という政策を敷いた。これに対し、正親町天皇は、変の後のわずか7日間に3度も勅使を派遣している。ただし、勅使として派遣されたのは吉田兼和である。兼和は、神祇官として朝廷の官位を受けてはいたが、正式な朝臣ではなかった。こうしたことから、光秀が得た権威は一時的なもので、朝廷は状況を冷静に見ていたと考えられる。
『老人雑話』は、光秀の言葉として以下の言葉を紹介している。曰く、「仏のうそは方便という。武士のうそは武略という。土民百姓はかわゆきことなり」。この言葉を光秀の合理主義の表れであるとする意見がある。高柳光寿は、著書『明智光秀』の中で、合理主義者同士、光秀と信長は気が合っただろうと述べている。光秀が信長とウマがあったのは事実で、光秀が信長を信奉していたという史料上の記述も多い。また、信長の方も、例えば天正七年の丹波国平定について、「感状」の筆頭に「日向守、こたびの働き天下に面目を施し候...」と讃えている。『信長公記』には他にも似たような記述が少なくない。
天正3年(1575年)の叙任の際に姓と官職を両方賜ったのは、光秀・簗田広正・塙直政の三人だけである。このことから、この時点で既に官職を賜っていた柴田勝家・佐久間信盛は別としても、丹羽長秀・木下秀吉などより地位が高かったと見てよいと思われる。当時織田家中で5本の指に入る人物であったことは疑いなく、簗田・塙は譜代家臣であることから考えても信長の信頼の厚さが窺える。
ルイス・フロイスの『日本史』に、「裏切りや密会を好む」「刑を科するに残酷」「忍耐力に富む」「計略と策略の達人」「築城技術に長ける」「戦いに熟練の士を使いこなす」等の光秀評がある。鈴木眞哉・藤本正行は共著『信長は謀略で殺されたのか』の中で、フロイスの信長評が世間で広く信用されているのに対し、光秀評は無視されていると記し、光秀に対する評価を見直すべきとしている。
西近江で一向一揆と戦った時、明智軍の兵18人が戦死した。光秀は戦死者を弔うため、供養米を西教寺に寄進した。西教寺には光秀の寄進状が残されている。他にも、戦で負傷した家臣への光秀の見舞いの書状が多数残されている。家臣へのこのような心遣いは他の武将にはほとんどみられないものであった。このように家臣を大切にしたことから、光秀直属の家臣は堅い忠誠を誓ったとされる。実際に、光秀の家臣団は、本能寺の変でも一人の裏切り者も出さず、山崎の戦いでは劣勢にも関わらず奮戦したといわれている。山崎の戦いの敗北後、光秀を逃すために、家臣が二百騎ほどで身代わりとなって突撃を行ったという記録がある。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
当時は非難の声が大きかったようですね。とても意外です。
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